本阿弥光悦と俵屋宗達

本阿弥光悦と俵屋宗達が活躍したのは、江戸時代初期の京都である。慶長八年に徳川家が幕府を開いて、政治・経済上にも圧倒的に優位にあったとき、京都では、天皇を中心とする公家や、茶屋・後藤・角倉といった町衆らによって、伝統的な王朝文化の復興がはかられていた。琳派の源流といえる光悦・宗達の芸術は、裕福な上層町衆の調度としての奢侈品の需要が高まるなかで展開していったのである。

光悦は、刀剣の研磨・鑑定の家業を継ぐかたわら諸芸に通じ、鷹ヶ峰の光悦村では、時代を象徴する斬新な意匠の作品を生み出すなど、アートディレクターとして、琳派における総合芸術の端緒を築いた。宗達は生没年不詳で、その生涯の大半は謎につつまれているが、京都の上層町衆の出身で、さまざまな絵についての求めに応じる絵屋の工房を主催していたと考えられている。その前半期には、光悦の書とのコラボレーションによる金銀泥絵を担当し、平安時代以来のやまと絵や装飾料紙にみえる身近なモティーフの大胆な単純化や、「たらし込み」の技法を駆使して、絵画の新様式を確立した。後半期、画家としての個性を明らかにした宗達は、養源院および無量寿院の障壁画の制作に取り込み、寛永七年に禁裏の「西行法師行状絵」を模写した際には法橋位にあった。「風神雷神図」の金銀泥と極彩色によって表現された画面は、明るさとおおらかさに満ちている。